2008年8月16日土曜日

ドラゴンの眼(上/下)

スティーブン・キング/作 雨沢 泰/訳 アーティストハウス



言わずと知れた「ショーシャンクの空に(原題:塀の中のリタ・ヘイワーズ)」「スタンドバイミー」「アトランティスのこころ」「グリーンマイル」など映画化作品も多い作者です。

「キャリー」「シャイニング」など、分類ではホラーになる作品や、「ランゴリアーズ」「ザ・スタンド」など、分類としてはSFになる作品の中にも、その根っこや背景に描かれているものが幅広く、分類が何であれ、そこに心が揺さぶられます。 

その彼が、「愛娘ナオミ」に送った冒険ファンタジーが「ドラゴンの眼」です。近所の図書館では児童書の棚に入っていましたので、出版社がつけている帯の申告どおり、子供向けと分類されているようです。

文体も確かに、子供が寝入るまで、枕元で大人が読んでくれているような調子で進みます。しかしはやり、1ページ目から、一般的な児童書を連想した人にはすこしばかりショッキングかもしれません。図書館には、大人のコーナーにも置くことをお勧めしたいものです。

はじまりは、デレインという国の、不死身だとさえ思われていた偉大な女王陛下が亡くなった所から。彼女には跡を継ぐ息子であるローランドがいましたが、「五十歳ではげていて、独身」(原文)です。

「こうして、すぐに結婚し、世継ぎをもうけることが、ローランド王にとってなによりだいじになりました。側近のフラッグが、ローランドにやたらとそれを思い出させました。フラッグはまた五十という年齢では女のおなかに赤ん坊をつくれる年数が、あとわずかしか残っていないともいいました。すぐに妻をめとるのがよろしいでしょう、陛下好みの高貴な生まれの淑女を待っている場合ではありません。五十になるまで、そういう女性がでてこないなら(とフランクはずばりといいました)おそらく永遠にあらわれますまい。」(本文より引用)

更に「王がこれまで好みの女性に出会わなかったのは、一度も本気で女を好きにならなかったからなのです。王にとって女は心配のたねでした。女たちのおなかに赤ん坊をつくる行為にも魅力を感じませんでしたし、それもやはり心配のたねなのでした。」とも続きます。

もう既に、ちっとも児童文学ではありません。なかなかの内容です。

しかしその後、状況は一転、ローランド王は無事王妃をめとります。勿論、ロマンティックに、劇的に出会うわけではなく、策略が絡みます。

めとった王妃サーシャは17歳、皆から愛される魅力的な女性です。結果的にローランド王も始めて女性を愛することができました。

そして物語の主軸はローランド王ではなく、この王とサーシャの間に生まれた「ピーター」と「トマス」という2人の王子と、先に名前が出てきた側近「フラッグ」の攻防です。

フラッグは邪悪な魔術師であり、王国ののっとりを企てており、まずは王妃を狙います。 

長男ピーター、次男トマス、同じ親から生まれた2人の少年ですが、月日とともにその言動には大き隔たりが生じていきます。

同性の兄弟姉妹を持つ人にも共感や、納得するところが多いかもしれませんが、「何を与えられたために」或いは「何を与えられなかったために」そうなっていったのか、「男の子にとっての母と、そして父の影響」とはどんなものか 、「幼少期の親の状況の違いの影響」などが、気持ちよいほど巧みに物語に組み込まれているように感じました。そしてこれは、実は親子三代にまつわる物語でもありました 。

前回の「トマシーナ」が娘を持つ親に読んでもらいたい本なら、ドラゴンの眼は男の子を持つ親に読んでもらいたい本です。しかも、キングですから、前半の伏線から後半に続くそのスリリングな展開に本が置けなくなってしまいました。 

キングがこの物語を語った愛娘ナオミは、当時12歳だったそうです。思春期前に「男性」についてこれだけのことを、しかも父から教わることができたなら、彼女はさぞ素敵な女性になったことでしょう。
(2008.8.16.)

2008年4月18日金曜日

トマシーナ

ポール・ギャリコ/作 山田 蘭/訳 創元推理文庫




この本は、もうずいぶん長く、かなりの数の夢を一緒に解いて、お付き合いをいただいている愛猫家で語学のプロでいらっしゃるEさんから贈っていただいた本です。(改めて、Eさん、ありがとうございました。)

タイトルの「トマシーナ」とは、少女メアリー・ルーが可愛がっていた猫の名です。

物語はメアリー・ルーの父アンドリューの動物病院からはじまります。獣医であり父であるアンドリューは「腕はよく、治すのも早いが、殺すのも早い。動物に対する愛などまったくなく、神を信じることもない。」と町の人々から噂されている人物です。

メアリー・ルーの母は、かつて自宅と病院が一緒だった時に、入院していたオウムの病気に感染して亡くなりました。残された父と娘。父は娘をとても愛し、メアリー・ルーは、いつも猫のトマシーナを抱きしめています。

次の章では、その猫、トマシーナが、この家族について詳しく語ってくれます。愛猫家の作者ならではかもしれませんが、猫におしゃべりができたなら、まさに言いそうなことがつづられています。

しかしその後、トマシーナは病気になります。アンドリューはメアリー・ルーの懇願をよそに、彼は「トマシーナを眠らせる」と告げ、助手に安楽死を命じます。

メアリー・ルーは、かつて母を失った時、「お母さんは遠くへいってしまった」と説明されてました。だから今度も「トマシーナも遠くへ行ってしまった、二度とは戻らない」と悲しみます。そして同時に、父親も「遠くへ言ってしまった」と言い切ります。彼女は父を見ることもせず「知らない人」「あの人嫌い」と心を閉ざします。

メアリー・ルーと近所の子供たちはトマシーナを森に埋葬することにしました。そこは森の魔女と呼ばれる女性「ローリー」の家の近くでした。

彼女は「変人ローリー」と呼ばれる世捨て人であり、一方で、神や天使の声を聞き、怪我をした森の動物たちを治すと評判でした。この頃は町の人々も、娘さえ傷つけることをいとわない獣医師アンドリューは信頼できないと、このローリーに家畜やペットを診てもらい始めていました。

ローリーの家には沢山の動物が暮らしています。中には過去世の記憶を持つ猫もいたりします。ローリーの噂はアンドリューにも届きます。ある日彼は、場合によっては地域の衛生官としての権限をかざそうと、ローリーの家に向かいます。

娘を愛してやまないのに、娘には伝わらない、ぎくしゃくした伝え方しかできない父アンドリュー。当たり前のことですが、まだ幼くて、父の人生の背景や事情など全く想像もできないために、父を思いやることもかなわないメアリー・ルー。心を閉ざした娘は、やがて自ら死を望むかのように消耗していきます。 

娘である女性と、娘を持つお父さんに読んでいただきたい本なのですが、同時に娘を持つ母にも是非読んでいただきたいと思います。父と母、女性と男性の役割分担や違いのようなものを振り返ってもらえるかもしれません。

('08.4.18.)

2008年3月30日日曜日

こそあどの森の物語③「森のなかの海賊船」

岡田淳/作・絵 理論社

 

児童文学に分類される物語の力は大きくて、
大人の方が楽しめて、また心揺さぶられる気がします。

物語のおはなし第一回目は
1994年から始まった
「こそあどの森シリーズ」の3作目。

この森でもなければ、
その森でもない、
あの森でもなければ、
どの森でもない「こそあどの森」には、
風変わりな住人が暮らしています。

「森のなかの海賊船」は、
シリーズ1作目で登場した
森の外に住む「ナルホド」と「マサカ」が、
主人公「スキッパー」と
再会する所からはじまります。

森の奥でキャンプをしていると言う
ナルホドとマサカですが、
実は「森の中の海賊船」を
探していたのでした。

その海賊の名は、
100年以上前に実在したと
言われている「フラフラ」。
「海賊物語」には
残酷な海賊だと記録されている
フラフラです。

しかし「こそあどの森」に暮らす作家
「トワイエさん」は、
どうしてもそれが信じられないといいます。
なぜなら彼は、全く別の真実を暗示する
古書をもっていたからでした。

そこには、海賊といわれながら、
魔術師とも呼ばれていたフラフラが、
催眠術か手品で人を酔わせ、
金持ちからは興行収入をいただき、
貧しいものには元気を与えていた
のではないかと推察できる内容が記されていました。

ナルホドとマサカは、
自分たちの宝探しを「人生の宿題だ」
といいます。彼らにも森のなかにある
海賊船と宝をずっと捜す理由がありました。
森の住人は彼らに協力することを決め、
森に向かいます。

フラフラはなぜ海賊になったのか。
なぜ海ではなく、森のなかの海賊船の
伝説になっているのか。

真実がわかる中で
愛と憎しみや孤独が何を作っていくのか、
強い思いはどう残り
何を生み出していくのか、
心に落ちる気がしました。

岡田淳先生の挿絵も含めて200ページ強、
大人なら1~2時間もあれば
読み終わると思います。

勿論、できれば第一作から
順に読んでいただけると、
住人のキャラクターがよく解かり、
それが展開に深みを与えてくれて、
楽しさ倍増です。
('08.3.30.)


「物語のおはなし」はじめました

新しいコーナー「物語のおはなし」をはじめてみました。

夜眠って見る夢は、現実ではありませんが、それを見ている間は、リアルな体験のように感じます。

だからこそ理屈は通らなくとも、他の人には意味不明でも、夢主だけは一気に腑に落ちたりします。

自分がつむぎ出した自らの物語である夢は、百聞は一見にしかずと同じ浸透度で、現実ではないのに自分の経験にもなりうるものです。

それと同じで、優れた創作者がつむぎ出した物語は、 世の多くの人までもをその世界に招き入れ、 体験を与えてくれます。

一冊の本や一本の映画、或いは写真や歌が、人生を変えてくれたという人も少なくはないでしょうし、 そこまでいかずくとも、その時の自分にぴったりくる物語に触れると、理屈抜きですっきりしたり、 元気になることはあると思います。

それは、夢に解釈は必要なく、夢を見ただけで効果があるというのと、似ている気がします。

自分の物語を語ると生きる力が湧く、と、わたくしは思っています。そしてその自分の人生を語るには、他の沢山の物語に触れることが助けになってくれるのではないかとも。

元々、物語が好きであるという個人的な趣味で、好きな本について語りたいだけじゃないか、と言われれば、それもまた本当です。理屈はともかく、こんな思いも含めて、お付き合いいただければ嬉しいです。