前回、恐怖を伴わない金縛りについてお話しました。今回はその続き、怖いものを見たり感じたりするのはなぜかというお話です。
今回も私の例ですが、旅先の古い温泉旅館での俗にいう「金縛り経験」があります。早起きをしての出発でしたし、日中もよく動き回りました。そして就寝。しかし眠ろうとすると今日見たものや出来事がぐるぐる頭をめぐります。そして夢うつつから眠りに落ちていく中、いつもより、体が沈んで暗い穴におちていくような感覚を味わいました。まるで、全身麻酔の数を数えていく中で、抵抗しても暗くなっていくようなイメージです。
しばらくは眠っていたのかもしれません。ふと、気配で目が覚めました。下の部屋で人が動き回る気配です。次に上から誰かが私の顔を覗ぎこみます。寒気がして払いのけたいのですが動けません。一瞬とても怖いと思いました。けれど「金縛り状態」であることに気づき、「私が描き出した物」と解ります。平静な心にさせてくれることを思い描きました。それから、すっかり目が覚めました。体も動きました。
しかし理屈が解っていても「また眠ると、先ほどの恐怖が訪れるかもしれない」というような不安がもやもやと襲います。特に、意識が遠のきかける、半覚醒状態に陥ると理性は失われ「何か良くない霊がいるのかもしれない」と恐れをイメージ化してしまいそうになります。ただ、それは自身が作り出した幻覚です。私の場合は、はっきり思い当たる節がありました。
その日、旅館に到着後、その古くから湯治場であった建物に、病気の人も多く滞在したのだろうなと思ってしまいました。中でも、丁度私が宿泊している部屋の真下にあった「遊技場」なるものが気にかかりました。そこにはビリヤード台や小さなカウンター、ソファー等がありました。大正レトロといえなくもない風情なのですが、今はもう使われていないようでした。
私はその中の様子を、ドアのガラス越しにのぞいただけです。埃をかぶっていて、もしドアを開けたら、締め切られていた部屋にこもった空気にむせそうだと、勝手に思い描いきました。 私の金縛り時の気配は、だからこその「下の部屋からの気配」でした。気配を感じて、そこに自分の想念を写し、「そこに何かがいる」というより「何かを自分がを見ようとして見る」と言った方がいいかもしれません。
また、実際にそれが「真下の部屋からの気配」だったとは限りません。ほかのお客さんが廊下を歩いたかもしれませんし、階下の廊下を歩いた人がいたのかもしれません。眠っている時は、覚醒時では気づきもしない小さな気配や変化に気づけるものです。
また、仮に、そこに何かが「いる」にせよ、「いない」にせよ、ほとんどの場合、恐らく、「後からお邪魔している」のはこちらの方でしょう。それなのに、あちらを邪魔者扱いをしても失礼かもしれませんね。或は、「心に呼応するものがなければ、あちらも取り付く島もない」という考え方もあるでしょう。
また、そんなことが「ある」とも「ない」とも、断言できるような立場にもありませんし、各人が観想するのも自由でしょう。従って「あるか、ないか」の「2つに1つの、どちらかが答え」というようなものでもないと思います。だから結果として「どちらでもよいことだ」と、私個人としては、思っています。
もし「金縛り」にあい、怖くて「それが嫌」ならば、それがやってきても、やり過ごしていただきたいと思います。実際に大変なことにはなりません。ただし、自宅で続く場合は、初回にも記しましたが、ホルモンバランスの変調など、健康面の不調がかかわる場合もありますから、健康診断などもお忘れなく。